面白いから、もっとやってください。

出たばかりの本。この気鋭のLSE仕込みの国際政治学者を信奉しているわけではないが、かの「前項の目的を達するため」という芦田修正は、1928年の不戦条約を再確認した日本国憲法9条第1項に素直につながるものであり、書いてあるとおり読めばよいというのは、そのとおりだと、私も思ってきた。

 現在は早稲田大学法科大学院教授だが、もともと東大法学部憲法講座教授であったのに、自衛隊合憲論を展開した長谷部恭男について。私のような貧しき男は、彼は東大よりも定年が5年伸び年収も増えるから(ただし、研究費は215,000円となり10分の1、雑用は数千倍になる)早稲田に来たのだと思っていたが、案外、芦部憲法以来の東大憲法講座の伝統を、自衛隊合憲論を展開して仲間と折り合いが悪くなったのだと初めて知った。

 それは余計な話だが、長谷部の自衛隊合憲論が依拠するのは、プロイセン法、イェリネクに遡る国家法人説。私の理解では国家有機体説の派生であり、自然人に正当防衛や緊急避難があるのと同じように、国家にもそれがあるという、きわめて古風な国家自然権を論拠にしており、これはこの著者の言い方だとガラパゴスであり、笑われるだろう。

 著者は、「国家は人工的に作られた制度でしかない」と明言していて、東大でも国際法学者でケルゼン門下であった横田喜三郎のような理解を、東大憲法学講座の教授たちは、今もって持ち合わせていない。19世紀ドイツのままだとする。

 それはそうなのだが、つまりプロイセン法学に対して、ケルゼンのようなウィーン純粋法学派の成果を、今も日本では理解されないのだが、たぶんこれには、ふたつ理由があると思った。

 ひとつは、ケルゼンの『純粋国家論』などを読んでいて思うのは、まさしくBeyond Nationalism ということ。第一次世界大戦、オーストリアのフランツ=ヨゼフ皇帝の開戦の詔勅は、「わが諸民族に告ぐ」となっており、ネーションのコンセプトがない。「国家」が、この帝国においては、皇帝という、諸民族を超えた神のそれということであった。国家を、あるネーションに帰属させると、この帝国は存立できなかった、それゆえにケルゼンの国家論は、19世紀民族自決主義の具体性を極端に嫌う、中性的な純粋論でなければならないということになるのだろう。

67615397_2310771639040086_2763525040786898944_n.jpg ふたつは、日本という具体性にこだわるのは、イェリネクの研究者でもあった芦部と、それに続く東大の憲法学者たち、当然ケルゼンを知ってはいるが、面白いことに、例えば三島由紀夫のように、「日本人」という具体的ネーションから独立し切ることができない。だから、「平和憲法」は、世界で初めて日本独自だと言い続けることになる。これは「右翼」のロジックに等しいと断言している(笑)。が、私は、「維新」と言ってみたら、あるいは「新撰組」と言ってみれば正義を感じるロジックと同じだと思った。

 ネーション「日本」から独立できないというところに、たしかにガラパゴスだということはわかるが、これの根本的原因は、天皇制にあり、またそれを模した日本人の怪しい祖先崇拝、たいした氏素性でもないのに、これまでの日本人多数派が、無理して○○家の墓を持ち、それが修身斉家治国平天下となっていくネーション「日本人」だと思い込んでいるからであろう。

「日本では、法律家や公務員とは、試験に合格するために、国際法を蹂躙することを強いられた経験を持つ者たちのことである」(60頁)(笑)。長谷部教授はじめ、石川健治、水島朝穂など、よくは知らぬが、私と同年代の少しだけ知っている著名な先生たちを、名指しで激烈に貶めて書いていて笑ってしまう。面白いから、もっとやってください。篠田先生!

 ただし、国家有機体説から抜けきれないネーション「日本」に右も左もどっぷり漬かっている今を見れば、この著者のような英米仕込みの国際法主義は難しい。安倍晋三や自民党は、この人のロジックを味方だと、都合よく解釈するだろうし、御用学者にもすぐになれよう。1928年の不戦条約を批准できなかった当時の日本の雰囲気は今もしっかりと残っている。その意味では、病気とされる憲法学者たちの存在意義は、日本が英米ではなくガラパゴスでしかない以上、まだまだ当分ある。😁

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