「社会学」の実力

画像 「社会学」は、sociologyの訳語だということになっている。社会科学のひとつで、例えば日本学術振興会のような公的な機関の研究者養成事業などにおいても、「社会学」という領域がある。しかし思うのは、その実力やいかばかりか? という点である。
 GW直前、ウィーンの親しい友人から、私にコンタクトしたい人がいるが、メールアドレスを教えてよいかと尋ねられた。「どうぞ」と答えるもまもなくメールがやってきて、その国の高等研究所のポスト・ドクター養成コースの学生交換の誘いであった。私の『アルフレート・シュッツのウィーン』『フリードリヒ・フォン・ハイエクのウィーン』にも触れてあるが、1950年代ヨーロッパの社会科学の地盤沈下を1920年代の華の時代に復活させるために作られた高等学術機関である。創設には、アメリカからPaul Lazarsfeld やOskar Morgensternが中心となった。故郷の学問復活ということであろう。この機関、半世紀を超えて、そのまま少数精鋭の研究者養成を行っている。博士号を取得したのちの正真正銘のポスト・ドクター養成コースである。
 メールをもらって、私の属する社会学コースではまったく無理だ。「専門社会調査士」などという愚かきわまりない資格コースに汲々としているのが現状である。そもそも博士号など持とうとさえしなくても、あるいは親しい仲間内で審査し合いながら取得することで、大学教授社会学者だと言っている人がわんさといる国である。ただ、社会科学3分野のうち政治学と経済学は、私の属する大学でも世界標準を超えてワールド・リーディングにあろうとする人たちがおり、懇意にしているお二人の政治学者と本部のhighclass servant officialにつないだ。GW中にもかかわらず、即決。話が早い。具体的な交渉に入っていくことになった。学問は、競争の側面がなくてはならない。それにひきかえ、私のいるところは、日本一大きな2学部1研究科の学術院という態勢で図体は大きいが、実はその中での持ち駒配分、人事分配など、ただそれだけで会議の大部分を過ごし、人文総合研究所創設などと言いながら、実は機械や器具だけの申請では無理だと却下されるような仕儀。封建社会がそのまま残っているのである。具体的な研究目標を世界に語る姿勢がないのである。鎖国に等しい。それは、そもそもの能力がないということでもある。研究所のためにと大型研究助成の申請のためと、パワーポイントであれこれ説明を聞かされたが、申請をするための、まさにそのための説明でしかなかった。あれでは、さすがの役所も本部も愛想をつかすだろう。それほどあまくはない。キックオフだけで、試合はドロー、途中中止となるやもしれない。

 今や授業も演習の学生報告もパワーポイントでというのが主流か? これを使えば「すばらしい」とでも勘違いをしているのであろう。はっきり言えることは、パワーポイントだけ使っていると、ますます頭は劣化愚鈍化していくということである。そもそも劣化激しい人たちは、さらにそれに拍車をかけるものでしかない。何かはめ込んで、そのとおり適当にコメントをつければ報告だと思っている愚かな学生、そして劣化した大学教員がわんさといる。

 今年度から、私の演習とゼミでのパワーポイントは禁止とした。レジュメ棒読み禁止とともに、今や相手の目を見て、説得力ある自分の言葉で説明すること、このことに教育の軸を置いた。とりあえず1ヶ月、効果はあるようだ。そこそこの能力を学生たちはもっている。どこかの国の防衛大臣が、国会答弁で棒読み、いい加減な答弁をしている映像を見て、愚かしいと思う人は、パワーポイントやレジュメなどは止めるようと思う必要がある。書いたものがないとしゃべれないというのが、社会学者の多くである。恥ずかしいことである。

 10年計画で、上の世界有数の機関にも、学生を送るために、まず自分の頭で考え自分の言葉で語る人間を作っていかねばならない。

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